音の仮面

 マスキングという聴覚現象がある。これは、 ある音が、別の音によって妨害され、聞き取りにくくなるという現象である。たとえば、雑踏の中では、電話の音がなかなか聞き取れない、などというのがこれ である。音が聞き取れなくなることを、その音が、他の音という仮面(マスク)をかぶって見えなくなってしまったと見立てたというわけである。

 このマスキングは、妨害音と目的音が同時に存在する場合はもちろん、時間がずれていても生じる。たとえば、大きな妨害音の直後は、100ミリ秒 (1ミリ秒は、1秒の1000分の1の長さ)程度のあいだマスキングが生ずる。

  逆に、大きな妨害音の始まる直前にも、数十ミリ秒のあいだマスキングが生ずる。たとえば、聞こえるか聞こえないかの、とても小さくて短い純音の直後に、 90デシベルというかなり大きな白色雑音を与え、二つの音の時間差が10ミリ秒程度だと、白色雑音がない場合に比べて10デシベルほど大きな音でないと聞 き取れなくなるという。

 これは、時間的に後の音が前の音を妨害するということで、物理学の大原 則である因果律(時間的に後に生じたものが、それ以前の現象には影響をおよぼすことはできないということ)からみるとおかしい。実は、聴覚神経を伝わると きに、小さな音より大きな音の方が神経パルスの伝達路が活性化され、神経どうしの接続部(シナプス)でのパルスの連絡が速くなるためらしい。このため、物 理的には後の大きな音が直前の小さな音を追い越し、この際にマスキングが生じるのだろうと考えられている。

 このマスキング現象は、実際の生活に有用な役割ももっている。たとえばBGMは、音楽によって不要な騒音をマスクしているのだと考えられる。

  またマスキングは、インターネットやマルチメディア時代の中できわめて重要な役割を果たしつつある。たとえば、オーディオ用のMD(ミニディスク)や、コ ンピュータやディジタルテレビ放送用の動画とHi−Fi音の代表的な情報圧縮符号化方式であるMPEG(Moving motion Picture coding Experts Group)では、聴覚のマスキング特性を考慮した情報圧縮がおこなわれているのだ。つまり、マスキングのために聞こえない成分の情報は送る必要はない し、部分マスキングのために聞き取りにくくなっている成分音には情報の割りあてをごく小さくして節約ができるからである。

  マスキングを上手に利用することによって、音の情報を貯えたり伝えたりするために必要なデータの量を圧縮することが可能である。これにより、CD(コンパ クトディスク)などのように単純な符号化をおこなった場合に比べ、普通の人になら音質の劣化をほとんど感じさせることなく、データの量を10分の1以下に まで圧縮することが可能になっている。

日本音響学会編著 音のなんでも小事典 (講談社ブルーバックス)より転載

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